小林裕児2015退任展図録エッセイ
「変化する様式 変わらない人間へのまなざし」
(小林裕児1968―2015)
1・1948~1968
生まれて、やがて絵を描き出すまで。
もの心が付いた頃、典型的武蔵野の大きな雑木林に囲まれたところに住んでいました、戦後すぐの時代で僕の就学前にはかなり大きな遊びのグループを小学校上学年のカリスマ的なガキ大将が率いていました、もっともそんな遊びのグループも自身が上級になったころには残念なことに無くなっていました。
しかし武蔵野の豊かな環境で近所の悪がきたちと大体は日が暮れるまで外遊びをするといった絵を描くことが好きなごく平凡な少年でした、かなりぼんやりした少年でしたが記憶をたどってみると校内放送で聞いた宮沢賢治とか町の映画館で見た「帰らざる河」のマリリン・モンローは今でも鮮明に覚えています。
中、高生の頃は小説に入れ込んで乱読しました。当然成績はあまり振るいませんでした。
思うところがあって高校2年生の夏、一人で奈良の古寺を巡ったのが契機になり美術の道を志す事になりました。
自ら絵を描き始めた頃、様々な絵画芸術に触れる中で何故か西欧バロック期の絵画が好きになりヴェラスケス、ゴヤ、レンブラントなどを図録から油彩や木炭等での模写を試みました、その頃描いたのが「母の像」、レンブラントの銅版画「三本の木」の油彩による模写です。
2・1969~1989
模索、テンペラ、森の中での出会い
大学に入ってしばらくすると騒然とした大学紛争の時代になり、落ち着いて絵を描いている場合ではなくなりました、しかしこの時代に身に着けたものが自身の絵画の方向性を決めて行きます(宋元画、琳派、長崎派を起点とする江戸絵画の流れ、プロトルネッサンス絵画、原始美術、等々)。そんな中、大学院在学中に40日間かけてヨーロッパの美術館を訪ね歩いたことは決定的でした。
そしてこの時期に結婚、アトリエを建て五日市町に移住することになりました、昔は湖だったという盆地で目の前を清流秋川が流れる南面の場所で目の前に「牛首」という山がでんと構えていました、こうして自然と隣接する生活が始まりました。
時間はたっぷりありましたから毎日のように犬を連れ何時間も山に入り草や木の名前を覚え、鳥寄せの名人と知り合いバードウウォッチングにのめり込みました(スズメとカラスだけだったところからアカショウビン、ヤマセミ、ミソサザイ、サンコウチョウ、キビタキ、オオルリを始め様々な野鳥に出会いました)。こんな風に少しずつ山あいの生活になじんで行きました。
あるとき、山の中で不思議な老人に出会いました、その人は雑木山の中で落ち葉を被って寝ていたのです、誘われるままに僕も試みに地面と一体になるとある至福の感覚が訪れました、するとすぐそばのスギ林の中から黄色いモヒカンの小さなキクイダタキが群れをなしてチリチリとさえずりながらやって来たのでした。何しろこの地では昔、隠居の身分になると山の中に雑木林を残し、月見小屋を建てるのが夢だったという話を聞いたことが有ります。
そんな日々でしたが気が付くと狭い庭は犬、猫、兎、アヒル、カラスに山羊と小さな動物園のようになっていました。
しかし自身の絵は模索と混迷の日々で未完成の悪循環に落ち入っていました、しかし1982年ふとしたきっかけでテンペラに取り組んでみました、田口安男先生のテキストを片手に卵を溶いて「宴」を描きました、何か自身の中でカチッとスイッチが入り次々と作品が生まれてきました※、恐らくその当時の生活、心情とぴったり合っていたのです、それから1989年までが僕のテンペラ時代となります(水絵でありながら抵抗感もあり顔料自体の美しさ、描写の具体性がありました)、とにかく夢中で、見て、触って描いてという毎日でした。
- トリビトはこんな森の生活の中から生まれました、斃死した様々な鳥や飼っている動物たちを直接モデルにしたのです。
3・1989~2006
画風の転換
テンペラ画(後に油彩との混合技法に発展)は大きなリスクを伴いました、完成までに膨大な時間がかかるのです、またしっかりとしたメソッドを基にした西欧中世の絵画技法を基にしているために案外自由度が少なく、困難を極めました。何しろ描き始める前にある程度完成を予想し手順も決めて措かなければなければなりません、初めのころはよく解らないことも多く、思いがけない事故で途方に暮れる事もしばしば起こりました。日々夢中で目の前の課題をクリアしたり、新しい技術を工夫したりでそれなりに楽しかったのですが、次第に技術も上がりそれなりに完成度が上がってくると何故か気持ちの中で少ししっくりしないものがかすかに残るようになってきました。出来上がると空白感の中に落ち込んでしまうのです。
描くことに違和感を抱えていてはこの先行き詰まってしまうのではないか、何故かそう思い込んだ僕は思い切って画風をドローイング※のところに戻してそこから始めようとしました、一度テンペラの窮屈さから逃げ出したかったのです。
※ドローイング―田中岺氏は生前デッサンという言葉よりは―ingの付いたドローイングの方を使う方が
しっくりするのではないかと仰ってましたが線を主体に表現の方に向けて何かを語ろうとするときに
この指摘は言い得て妙だと思います。
様々な試み
線で括り取るような地と図を単純化した様式を選んだことは生活空間の中、感覚で捉えていてもちょっと可視化しにくい幾つかの要素が表現可能になりました。またトリビト一辺倒だったモチーフ※にも様々な展開がありました。
しかしながらこの時代テンペラで何を成したかをあらためて考えてみますと幾つか今につながる経験になっていると思います。私たちが目で捉える物には全て表面があります、その表面にこだわって、膨大な時間とエネルギーをかけてなめるようにテンペラの斜線を面相筆に乗せて細部まで描いてみた事。一方で形を描く時に同存化表現=アナロジーを用いることで一見混乱しているように見える対象を整理してみる習慣が身についた事。もう一つ吸湿性の下地に出会ったことで画面の表面の下の層に仕事が出来るようになった事。
またテンペラによる最後の作品で描いたトリビトは「対話」という作品であることは絵画の中に僕が求めてきたもののテーマがテンペラ時代に熟成してきていると思います。
※鳥人からの脱却、記号化された繭型の形態の登場から丸木舟(空舟)や引き伸ばされた顔、浮遊する
人、双子等への展開、藍、朱、土色、白亜といった伝統的な色彩への耽溺といった所でしょうか。
点(てん)苔(たい)
清明なある日、アトリエの窓からぼんやり外を眺めていると逆光の前山「牛首」を背景にして無数の蜘蛛の子が長い銀糸に乗り上手に向かってごくゆっくりと移動してゆくのを見ました、この時、普段何気なく見ている空気が一種ゲル化したような密度を持ったのです、僕の画面に度々現れる記号の点(てん)苔(たい)はそのようにして始まりました、ずっと後に皆既月食を見たときに何かぽつんと宇宙の中に佇んでいる感覚を覚えたのにちょっと似ています。
1991~93にかけて版画※1、木※2、ブロンズによる立体作品、スケッチブック※3の制作が始まります、どれも作品制作のプロセスに魅かれての事だったと思います。
※1 奈良の車木工房で銅板、リトグラフを制作、96年頃からは白井版画工房でも制作
※2 ショベケーブなどの洞窟壁画はカーブしている鍾乳洞の壁面に描かれていて当然のことながら
四角い枠もありません、たまたま手に入れた地元の小学校で切られた桜の木片を小刀で削って
いるうちにレリーフ状の作品に行き 着きました、次々と作り続けるうちに次第に大型化、
しまいには彫刻作品のようになってしまいした、うねる表面に描かれた絵は見る人の視覚の恒常性
に依拠するために線遠近法のカメラアイ的世界から自由で鑑賞者を視る作法から少しだけ自由
にしてくれます、補陀落渡海をイメージした丸木舟たちはその延長上で制作されました。
※3 アメリカ旅行で手に入れた革張りのホワイトブックがきっかけで描き続け2015年2月現在890冊、
56.200枚程になっています、ほとんどが空想的イメージでついでムーヴィング、まれに写生をする
こともあります。
安井賞受賞前後
1986年に安井賞を受賞しましたが受賞作が描かれた1985年は阪神、淡路大震災、オーム事件と日本を震撼させる大事件が起きた年でした、震災当日には作っていた作品に思わずドリルで穴を開けたのを覚えています。「夢酔」には今も度々現れるヴァ―ミリオンの平塗が初めて使われましたこの作品を今見るとそんな気持ちの揺らぎ、緊張感のようなものが塗り込めた朱に入り込んでいるように思います。
このころの作品は記号化が進み楕円形の顔にアーモンド形の目、レリーフ状のフォルム、モノトナスな色彩へのアプローチでさまざまな素材で象徴としての「人」に迫ろうとしていました。
ゆるやかな変化
1999年は現在まで続く二つの大きな始まりの年になりました、一つは小さなきっかけから演劇にはまったのです、創造力豊かな劇作家による演劇に魅了され次から次へと毎週のように劇場に通いました、やがて森中の一軒家と都市の暗闇の中の劇空間を行き来するうちに演劇そのものをモチーフとした作品が描かれるようになってきました、こうした中で記号的表現から徐々に離れイメージのコラージュのような手法に少しずつ移行してゆきました。
もう一つは現在まで続く「ライブペインティング」の活動を開始したことです。異能の即興コントラバス、作曲家齋藤徹氏と知古を得たのをきっかけに内外の素晴らしい音楽家、ダンサー、演劇人とのコラボレーションにより即興の場に身を置きながらその場に立ち顕れる「なにか」を形にして行くことを始めたのです。またここからは僕のタブロー作品からつくられた音楽や演劇的パフォーマンスへと発展してゆきました。
大作への取り組み奥行の復活
2007年国立新美術館が出来ました、所属する春陽展も新美術館に会場を移すことになり広い会場になったこの年から毎年275cm×350cmの大作に取り組むようになりました。絵を描く距離では全体の把握が不可能なほどです、まるで絵の中に棲みこむようにして絵を描く感覚が新鮮でした、ごく自然に奥行の世界へと回帰してゆきました。
2011年震災の年、僕は家族の紐帯をモチーフに春陽展に出品する「こだま」を描いていました、震災、原発事故は大変な衝撃で画家として何を成すべきかを考えさせられました。この年はいくつかのチャリティーイヴェントにも参加しました。春陽会でもチャリティーの企画を企画、自身も参加しましたが、震災そのものはあまりにも重く直接モチーフになることはありませんでした、しか2014年乾千恵さん作齋藤徹さん作曲のオペリータ「歌をさがして」の「よみがえりの花は咲く」の深く美しい歌は僕の「よみがえりの木」を生み出しました、長年探し求めていたやわらかで温かい闇の色をこの間に発見してのことでもありました。
僕の紡ぎだすイメージは絵を描く日常の中にあります、スケッチブックを取り出し万年筆で一回限りの線を引く時、非日常の絵画の入り口に立っているのかもしれません。
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