2022/99th春陽展 「遊森胎命」100日間の制作過程
日頃通っている散歩コースの一つに地元の氏神を祭る雑木林に囲まれた小さな参道があり何度かその場所ではある気づきがあり作品を制作してきた。ところが今年になり参道の周りが大きく切り払われ大地の構造があらわになり小さな川をはらんだ谷を挟んで対岸の山まで見渡せるようになった。新たに出現した景色に触発され100号の作品を制作した。しかし切り払われたのは参道を直角に交差する新たな道をつくるのが目的で上手の丘を切り崩し下手の谷を埋め参道は深く削られ通行不能になってしまった。そんな日常の中、みるみるうちに変わっていく景色を眺めているうちに、秋口から始めていた春陽展を目指すスケッチブックによるスタディにはこの事件の反映と思われるイメージが徐々に形成されてきた。かなりの枚数を描き試行錯誤の中、12月に入りほぼほぼ構想がまとまったところで木炭によるラフスケッチを試み制作を開始することにした。
始める前のざっとした構想を立ててみた、テーマはまだあいまいだがモティーフははっきりしている。虹のアーチ、中空に浮遊する三本の木を持つ大きな丸木船、そのうえで繰り広げられる人々の不可解な行動、前景には成人した「マッチ売りの少女」「鳥かごを持つ人」谷を渡るつり橋の先には柔らかな布の結界、橋の上を対岸の結界に向け疾駆する馬上の人、笠雲のかなたから時空を超えて勢いよく登場する生動感あふれる家族といった具合だ。いずれもスケッチブックによるスタディから発生した者たちだ。さらに同居猫の「まよ」、記憶の中に今も鮮やかな山羊の「トラミ」散歩の途中でたびたび出会う鳥たち、飛翔、浮遊に対して、安定し確固としたかに見える崖、しかしどこか空虚とも見えながらも画面全体を包み込む清冽な空気感。
まずはパネルを制作し、描き始めよう。
2021/12/28
273×350㎝六分割パネルに天竺木綿をマウント、μグラウンドを11回塗り、いつものように7.8層目にテールヴェルトの顔料を入れた層をはさみこむ(この色はメーカーによってかなり色味が異なる、僕の試したもので明るいほうからホルベイン、クサカベ、ニュートン、松田の順だ、今では天然素材の物はホルベイン以外にはないが、昔持っていたどことも知れないイタリアの物に比べると全体に緑味が強い、ただしマツダはかなりグレーなので自身のイメージに近いグレーを得られるのでこれを愛用している)これが画面全体のトーンを導きだす。
まずは画面に直接木炭でドローイングをこころみる。
2021年12月28日、木炭のあたりに罫書線をダイヤモンドニードルで入れテレピン+スムースサンダー#250紙やすりで表面を平滑化する作業に入る。
2022/01/01
削り作業終了後、画面全体にリンシードオイルを擦り込む。少し時間を置いた後余分なオイルは取り去る。
油彩イエローオーカーにより下塗り、下層や下地に挟み込まれたテールヴェルトなどの土性顔料を使うのは土の温かみから始めたいという思いがあってのことだが、最終的なイメージを考慮しつつ下地層に染みこませる感じでおこなう。
2022/01/02
さらに土地とは対極にある藍色のプルシアンブルー、樹木の下地のバーントシェナで下塗終了
舟、鳥たち、光、炎はあえて下地を施さない。
- 大まかな光の方向を決め空、雲 岩と描き進めるうちにいくつか問題に気が付いた
- そもそも最初のドローイング段階にあった大きな虹はどうも無理があるので取りやめることにした。そのうえでほかの手だてを模索する。
- 最初のイメージにはなかった湖ないしは海を導入する事にしてぎざぎざの山を遠くに押やり遠景を確かなものにする、中景に大きな壁のように設定した崖はまず初めに描き進んだがそれとの対比も明らかになり、自身の内なる内海が導き出されたことに喜びを覚えた。
抜け空間の空に抵抗感を期待してテンペラ+油彩シルバーホワイトを1:1で作成したコネ物のマチエールを置いてみた(ウルトラマリーンとホワイトによる研ぎ出しでマチエールを強調)。空にはどこからかやってきた整序された形の傘雲が三本の木の後方に見える。
この段階テーマもほぼ明らかになりでタイトルを「希望の行方」とすることにした。(のちに変更)
2022/02/02
遠方の山々からかなり時間のコストをかけ徐々に描き進めて杉、桧の針葉樹と楢、くぬぎ、楓、桂などの広葉樹の混交林を空気遠近法も援用し徐々に描写、上手上方、すなわち鑑賞者の位置は森という設定で画面の外、手前から張りだした照葉樹のモチノ木の枝葉でシルエットを強調して描いた。
まだ描かれていない下手には上方崖と絡むように最近自身気に入りのレース状な隙間の多い合歓の木など季節を無視して描くなど具体的な予定が見えてきた。
崖の影が水に映る様子をマチエールで取り組んだ空との対比でかなり様式化した表現を採用、クロスハッチングのウルトラマリーン+チタニウムホワイトのテンペラで描き、その過程で一度諦めた虹を小舟に乗った二人の人物の手のうちに発生させることにした。
また画面に展開する世界が川の形状で少し窮屈と考え「U」の字だった川の形を横に寝た「し」の字に変更した、この変更で川は下手手前の地面で遮られ水平の方向性が強調される効果を生んだ、同時に下手の対岸にスペースの余裕ができ斜面を駆け上がる針葉樹と広葉樹の混交林を描くことができた。
つり橋の構造を構図上可能なようなので少し無理もあるがワイヤーのみに支えられたシンプルかつ不安定なものに変更することにした。
022/02/04
画面左側中央付近中景、崖の前を生え上がる木々を一本ずつ植えこむようにして描いてみた、少し荒っぽい描写のようだがこれ以上描くと全体のバランスを崩しかねないのでとりあえずこれでよしとした。また水際に配した岩に色と形を与えてみた。
2022/02/04部分図
樹木の描写は(油彩)バーントシェンナ下地、(テンペラ)テールヴェルト+ネープルスイエローで描写の後(油彩)ウルトラマリーン+ヴィリディアン、テールヴェルト+ネープルスイエロー)やオーレオリンによる透層でトーンを整えた。
2022/02/20
画面前景のいくつかの樹木を除いて絵の表情がだいぶ見えてきた。また前景の地面はかなり暗くすることで白い船と対比、中央の中空に浮かぶ舟には豊穣の暗喩としてパラパラと実を着けた三本の柑橘木を置いたのだが。これは盆景を大きくしたもののようでもある、もう一つはっきりしたのはなぜかレンブラントの銅版画「三本の木」へのオマージュでもあることだ。思い起こしてみれば半世紀以上前にレンブラント展でこの小さな銅版画に感銘を受け小さな油彩で自由模写、それ以来半世紀以上常に身近に置いていてアトリエの景色の一部になっていた。その絵を最近ある人に譲った、無くなってからしまった事をしたと思ったが、しかしそれがきっかけとなった。なぜかまた自分なりの「三本の木」を描いてみようと思い立ったのだ。いくつかの試作、試行錯誤の過程を経てこのイメージに至った。レンブラントの銅版画ではネーデルランドのどこまでも平らな風景の中にわずかに盛り上がった地の上に取り残された三本の木が逆光気味の光と水分を含んだ大きな大気の中に見事に捉えられていたが、僕の絵では下手からの順光を受け箱庭的な景色の中で人や動物など様々な者たちが右往左往それぞれたどり着きえない何かの哀歓のようなものを抱え物語をはらんで登場してくる。
とは言っても登場する者たちはいまだ放置されたまま現れてはいないのだけれど。
2022/02/20 部分図 合歓の木と舟上の柑橘
テンペラによるテールヴェルト、チタニウムホワイトによるシンプルなの合歓の木に対して画面中央、実を着けた照葉樹の柑橘はバーントシェンナ下地(油彩)、テンペラによるテールヴェルト、チタニウムホワイトでの描写、油彩テールヴェルト+オーレオリンの透層で仕上げた。
2022/02/20 部分図 舟の描写
今のところ舟体の色は下地の白色をそのまま生かしラピスラズリシェード、チタニウムホワイトでの浮彫的描写、内側には紫が欲しく(油彩)カーマイン、(テンペラ)ウルトラマリーン+チタニウムホワイトのハッチングを施した。
ここまですべて空想によって架構空間を描いてきたわけだがいつになく自分で立てた構想が何度も裏切られた、明け方のまどろみの中「あれ!」と気が付いて目が覚めたり、面相筆の切っ先のリズミカルな運動を見つめているうちに不覚にも寝落ち、筆を取り落とし、はっと方向転換を思いついたりだ。
現代のテンペラ+油彩での絵画は僕の考えでは西欧ルネッサンスの古い技法を印象派以後の感性でよみがえらせたもので、物理の法則以外決まったルールはない、が僕の場合、唯々色の純度を追求するところなどはスーラたちの点描に近い方法かもしれないなどとスーラの「グランドジャット」をシカゴで観た時に思った、尤もこちらは点を打つのではなく網目の間に点を残すのだけれど。水面に落とす影や崖の表現、樹木の扱いを見れば明らかで下の層から重層された色の組み合あわせガほとんどすべて透けて見え光学的な混色になるだろう。混色による濁りに悩みぬきそれを極度にきらうためにこの技法に引き寄せられた。
この技法を実現するためにいろいろ試みた中で日本画の面相筆や削用筆に今のところ落ち着いている。合歓の葉もそうだがよく描く杉の隙間も風通しが良くて隙間の景色が透けて見える。
2022/02/24 中景の杉の描写
前景を強調すべく、葉の一枚一枚を枝からつなげ描き連ねてかなりの時間をかけてテンペラで杉を描いて見た(バーントシェンナ、テールヴェルト、ヴィリディアン)、実物は合歓でも杉でももっと密でこのような隙間はないのだが、1982年初めて杉を描いた時からこの方法を積み重ねてきた。僕の方法では繰り返しになるがすべからく描写はレリーフ状の薄肉で描くので(ピサネロ、セザンヌ、若冲)杉の葉も半割の全面のみ。中景以遠は実際の見え方を考慮して方法を変え、少し塊を意識して描く。この場合も樹木の葉の作り出すリズムをハッチングのクロスの仕方や点苔の打ち方で表情を表現している(右図)。
杉の木を描き進める中で重なる部分が出てきたのでとりあえず疾駆する馬とその影を描いてその上から重ね描きしてみた。
ここから下手前景の樹木の描写に取り掛かるつもりだ、下から枇杷、柏、やぶ椿と我々の生活に密着した樹木だ、これを前景に描くことでおのずから前景よりさらに手前、鑑賞者が地続きに立ち位置を感知できようにしたいと思う。
2022/2/28
下手の前景の植物を描写しほぼ植物は描き終える、やぶ椿の花や葉の色調など少し調整が必要だ。柏は冬も葉を落とさず春に新芽と入れ替わる、ここに中間のグレーが欲しく(テンペラバーントシェンナ地+チタニウムホワイトのハッチング/油彩テールヴェルト)枇杷は(テンペラテールヴェルト+チタニウムホワイト+チタニウムホワイトのハッチング/油彩テールヴェルト)
2022/3/1 左中柏の葉、右枇杷の葉
少し全体とのバランスを考え、さらにウルトラマリーンのテンペラハッチングで調子を整えた。暖色と寒色の対比はこの絵の下支えだ。
これで漸く舞台装置は整ったと考え、ここから人や動物の描出に進むことができる。
まずは上手の巨大化した人物から取り掛かることにしよう。下手の人物たちと比べかなり大きくバランス的にはあり得ないのだが立像の人を画面の両端に置くことで画面にアンバランスを生じさせ画面の動性を助けるだろう、ここにはやや落ち着いた感じの女性を考えている、スカートのスリットの中にはダンスを踊る極小化した男女が見受けられるはずだ。
2022/3/14 上手の大きな女性 3/16 上手の大きな女性の上半身
まだ描き切れていないが表情はつかめた。横向きの顔でも目は無理を承知で正面向きに描く、テンペラチタニウムホワイトによる浅い浮彫的肉付け、口や小鼻の表情が気になり何度も描きなおした、目の形で無理をしているので矛盾が大きいが何とかクリア。
まだ手をつけていない下手の寓意化され重ねられた人物、鳥を持つ人と、成長したマッチ売りの少女(別役実作かつて寺島しのぶによる名演を観劇、それ以来繰り返し僕の画面に登場)の予定だ。それに対して上手の大きな女性は日常的恒常性の象徴でなぜか両手でマチ針を刺した針刺し持っている、ヘアースタイルは人間離れをした大きくうねるような表情を持たせた。予定ではスカートの中にはダンスを踊る男女を隠し持っている。
緋色のバリエーションが欲しいと考え、油彩カーマイン、マゼンタのスカート、テンペラバーミリオンウルトラマリーン、マルーンのシャツをすべてハッチングで描いてみた、背景にここだけ次元を変えてテンペラヴィリディアンの杉を置いてみた、明快な色の対比を優先した。
2022/3/11 足元の山羊たち
靴の色で少し悩んだがいつも描く山羊たちの黒色(すてっどらーの8B)に合わせ黒色(油彩ヴァインブラック)を平塗した、山羊の角はいつものように丹頂鶴の頭部に倣い婚姻色の朱で染め上げる。
殆ど描写が必要なところは日本画の狼狸面相(ローリメンソウ)によるクロスハッチングで描いている、子細に表面をみれば下地の層まで観察可能でしかも繰り返しになるが混色に頼ることなく原色を下地の色との組み合わせで減算混合が可能となる、単純でリズミカルな執拗な手の動きの中で画面が求める密度と光学的な効果にたどり着ける。これはテンペラの本来の方法からは少し横ずれだと思うが自分では気に入っている、このところはひたすらクロスハッチングの日々だ。
2022/3/16 やや下手中央
空のかなたからやってくる家族に取り掛かる前にいったんは取りやめた虹を描いてみた、中央の黄をやや大きめに、まるで舟から発生したかのように半透明を意識して描いてみた。
頭部はまだ途上だが3/16がやや描写に頼りすぎと考え目の位置や明暗の表情肩口の形などやや表現を前に押し出すように3/17のように描きなおし髪も描きこんだ。
家族像全体を仕上げる前に下手の人物にとりかかる。
2022/3/17
家族像全体を仕上げる前に下手の人物、前にも触れた「成長したマッチ売りの少女」と「鳥を連れた少女」にとりかかる。
20223/18
手始めにコスチュームからテンペラで描き出してみた、「成長マッチ売りの少女」ウルトラマリーンディープとチタニウムホワイト、「鳥を連れた少女」バーミリオン(チタニウムホワイトはクサカベ、それ以外はシュミンケ)、画面の色彩計画は基本的には朱と藍(ここではウルトラマリーン)の対比のアナロジーで進めている、藍は全体にちりばめられているが朱は慎重に配置を意識している。人物の表現ではシュミンケの深みのある美色顔料を愛用している。画面を下支えしている黄は下地で使用するイエローオーカーとネイプルスイエロー(製造中止でもはや手持ち分だけで代替にニッケルチタニウムを使用しているがこちらもクサカベしか製造していないそうだ)、前にも書いた通り全体のグレーはマツダのテールヴェルトだ、陥落化した僕のテンペラメソッドではステッドラーの8Bが大活躍だ。
2022/3/23
かなり完成に近づき詰めの段階に入り家族像の人物構成が明らかになった、父親ないしは長男、長女、双子の次女と三女が大きな鳥を伴って飛んできた。ここから舟の上の人物たちに移る、漠然と決めていた人物たちのポーズの意味が具体的な描写の中で明らかになってきた、対話の変形として、捉える、受け渡す、明示する、鳥かごのつもりでいたが何やら不可解な鳥がいる止まり木に変更、舟の舳先の人物にも止まり木に捕まる白い梟を描いた。
2022/3/30
完成間近だがウルトラマリーンにこだわりすぎたためかいくつか齟齬が出てきた、下手のコスチューム、川、舟の色がかぶってしまい各々の位置があいまいで少し整理が必要だ、対策としてコスチュームはそのままにして川の色をプルシアンブルーで少し落とす、舟の色を内も外装もテルベルトオペイクの塗り重ねで質感を強調したい。さらに崖のトーンを少し抑えるためにここもプルシアンブルーで少し落とすことで整理がつくのではないか。
2022/4/1
最後まで放置していた二羽のサギらしき鳥たち、虹の発生を促す人物、橋の上の馬上の人たちやチャトラの猫などを描いて一応の完成としサインを入れた。上手のスカートの中に描く予定の人物は画面全体がかなりにぎやかになり断念することにしたというかスカートの中に隠したことにした。最後の最後に我が家の庭に咲くのを待っていた椿の花を描き入れて筆を置いた。
様々な者たちは対になりあるいは孤立しながら仮構の景色を背景に凝固した時間の中それぞれの希望に向かい個々の物語を紡ぎだす。
個人的な妄想の世界は案外御しがたく試行錯誤の連続であった。そんな中、絵を描く醍醐味を十分味わえた充実した日々であった。三本の木の葉が飛翔する光を持つ人物も含めて💛の形になっていることに今気が付いた。
タイトルをかつてなく多用したラピスラズリ=ウルトラマリーンにちなんで「瑠璃の夢」に変更し春陽展に出品したがやや造形要素に偏りすぎた題名と考え、さらにギャラリー椿個展のサブタイトルを「楽哀の森」とする中、最終的に「遊森胎命」に変更。
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