心源へ、私の絵画作法
絵画科版画コース教授 小林裕児
グレー
我は手のうへに土(つち)を盛り、
土のうへに種をまく
いま白きぢょうろ(、、、、)もて土に水をそそぎしに、
水はせんせんとふりそそぎ、
土(つち)のつめたさはたなごころの上にぞしむ。
ああ、とほく五月の窓をおしひらきて、
われは手を日光のほとりにさしのべしが、
さわやかなる風景の中にしあれば、
皮膚はかぐはしくぬくもりたり、
手のうへの種はいとほしげに呼吸(いき)づけり。
この清新な詩は萩原朔太郎の「掌上の種」(月に吠える所収)だが、
言葉=ものという対応関係を超えて誰でも触覚的かつ視覚的なアプリオリ
な共通感覚を与えられるだろう。
これを絵画的な感覚をあえて言語化して言いかえるとすればグレーのもつ
詩的情緒感覚と言いたい、ある種絵画の魔法のようにも思う。
例えばジュール・パスキンの飴色の中間調子やカミーユ・コローの何とも
心地よい銀灰色、あるいは歌川広重の「洗馬(せば)」(木曾街道六十九次)に
あるような紙にしみ込む水性木版のあわい表情、こうした少し湿り気を帯びた
ちょっと言語化しにくいグレーの奥行き感覚を獲得することから僕の絵画は出発した。
[i] カミーユ・コロー「真珠の女」
歌川広重「洗馬(せば)」
造化—鉛白そして「ラスメニナス=侍女たち」
油絵の具と付き合う中で時代と逆行するようにバロック絵画、中でもヴェラスケスに
強く惹かれるようになった、徹底描写かと思いそばに寄るとまるで嘘のように画像が消滅、
自由自在な筆さばきで絵の具を画面上でかき混ぜるウエットインウエットの技法を駆使して
描かれる世界は描写を遥かにこえて僕を別の次元に連れていってくれた、ずっと後に
なってミッシェル・フーコーの「言葉と物」の冒頭「侍女たち」を読んでこの絵の奥にある更なる
深みを教えられ絵画小僧の僕がこの絵に惹かれたわけが納得させられた。
僕は小遣いをはたいてスキラ版の王女マルガリータの図版を求め無謀にも我流で拙い模写
を試みた、その当時手元にあった技法書は「油絵のマチエール」(岡鹿之助著)と「絵画」
(モローボーチェ著、大森啓介訳)のみでそこからはきわめて乏しい実践的知識しか得ることが
出来なかった、しかし図版をよく見ると透明感のある美しい絵の表面は幾つかの層になって画面が
成り立っていることが透けてみえ、制作過程の読み取れる実に風通しの良い絵であることがわかった。
そして最下層にはしっかりとした白い下地の層があると思えた、これは岡の推奨する半透明な
ジンクホワイトでは不可能あった、がっちりと上層の透明、半透明の層を支えてくれる鉛白
=シルバーホワイト、かつて歌舞伎役者たちが昔の貧しい照明の中でも光を捉えた鉛白、皮膚が
焼けるのもいとわず使い続けたその鉛白に行き着いた。おそらく明治の初めに登場した高橋由一「花魁」
の強靭な画面や靉光「眼のある風景」の重層感あふれる画面もこの絵の具を使ったに違いない。
しかし複雑な制作過程をもつ油彩は乾燥に時間がかかりすぎ実験の繰り返しによる試行錯誤を阻んだ。
せっかちな東京生まれの僕には実にじれったかった。
またウエットインウエットもプリマ描きも自由に併用したに違いない超絶技巧のヴェラスケスは遠い存在であった。
ヴェラスケス「ラス・メニナス(侍女たち)」
高橋由一「花魁」(部分)
靉光「眼のある風景」
斜交する白線—乾いた世界
鉛白まで到達した後、僕の絵画世界は停滞した。
シーシュポスのような岩でないにしても僕が頂上まで運び上げた小石はバラバラと
積み上げるそばから崩れ落ちてしまうのであった。
描く自由を取り戻すにはもう一度はじめに獲得したグレーの世界に立ち返る必要
があった、おぼろげに絵画の言葉も描くべき世界も見え始めていた、その為には積み
上げた物が崩れない自分なりの構造、方法を獲得する必要があった。
バロックで止まっていた絵画の技法史をさかのぼる僕の時代への逆行はプロト
ルネッサンスのテンペラや琳派へと向かった、どちらも平板かつイラストレイティブな乾いた
世界でグレーな統一世界は保持しつつも額縁が作り出す窓の中に拘束され斜線に規則化
されたパースペクティブや強制された自然さから自由であった。
絵画教育に関する言葉を残している15世紀イタリアの画家ピサネロの指摘しているとおり、
ジョットでもウッチェロでも立体はまるでセザンヌかキュービストのような絵画の中でしか成立
しない奇妙なレリーフ的なフォルムあるいは琳派のような装飾的な記号に置き換えられている。
当時、日々近くの里山に分け入り自然の個別な表情に強く惹かれていた僕はこれこそが
自然物の造化を形に出来る最良な方法に思えた。
雑草とか小鳥というものは自然界にはなくあるのはシジュウカラやカケスやメジロ、アオバズク
であったりテイカカズラやクマガイソウ、ノコンギクやトリカブトであったりした。
ある日森の中でトラックの轍が作る水たまりの中にモリアオガエルの径20cmぐらいの白い泡の卵を
発見した、家に持ち帰り育つのを見守っていると小さなバケツの中でてらてらした見事なヒスイ色に
育ち金色の眼鏡をかけどこかへ去っていったがその後何年にもわたって季節になると庭に出現した、
個別のこうした経験の手触りこそ僕のディテールであった。
描きたい対象の細部の表情を保持しながらいったんバラバラに解体し再構築する我が国の琳派や
プロトルネッサンスの画家たちの方法は現代に生かす価値があり、アンリ・ルソーの熱帯シリーズや
狩野山楽「朝顔鉄線花」にも通底するものがあると思った。
僕はこれをテンペラの斜交する面相筆の白く細い描線に託した、細部にこだわりフォルムを浮き彫り
化し綴じたアウトラインであらわす、これを自ら設定した舞台装置に置くのである。
狩野山楽「朝顔鉄線花」
小林裕児「アリア」
水銀朱=バーミリオン
融銅(ゆうどう)はまだ眩(くら)めかず
白いハロウも燃え(もえ)たたず
地平線ばかり明るくなったり陰ったり
はんぶん解けたり淀んだり
しきりにさっきから揺れている
中略
そのすきとおったきれいななみは
そらのぜんたいにさえ
かなりの影きょうをあたえるのだ
すなわち雲がだんだんあおい虚空(こくう)に融(と)けて
とうとういまは
ころころまるめられたパラフィンの団子(だんご)になって
ぽっかりぽっかりしずかにうかぶ
地平線はしきりにゆすれ
むこうを鼻のあかい灰色の紳士が
うまぐらいあるまっ白な犬をつれて
あるいていることはじつに明らかだ
後略
宮沢賢次「真空溶媒」抜粋
例えばこの詩に顕われるような情緒を絵画で表すとしたらどのような形式があるだろうか、
言葉と物の関係が意識的にずらされ「と」の接続詞が曖昧にされ物も言葉も中空にさまようのだ、
しかし一人自然の中に分け入り、空一面の蜘蛛の子の飛翔に巡り会うとき、木々のざわめき
の中の木漏れ日に驚くとき、地面にオトシブミを見つけたり花筏の葉に驚いたりするときに誰でも
この詩のような感覚に襲われることがあるのではないだろうか。
可視のこんな世界がもつ空気感のリアルを表したかった僕は空気を熱く朱色にゲル化し
(藤の木古墳の石室、神社の鳥居等々にみられる朱=バーミリオン)そこに点苔(デフォルメされ
記号化されタッチに置き換えられた蜘蛛の子、水蒸気、拡大されたバクテリア等自然界の様々)
を浮かべることで顕そうと考えた。
僕の想像の中でのことだが遥か昔の旧石器時代、呪術と宗教、芸術がまだ分離せず地下深くの
洞窟の中でクロマニヨン人たち(ショベケーブ)が洞窟の入り口近くにネガティブハンドを残し熊祭り
の儀式を行い壁に絵をのこし舞踏と楽音の中でシャーマンの指揮の下行った行為そのもののイメージ、
おそらく彼らは「と」の接続詞から遥か遠い場所で彼らの掟に従いある種のグルーム感の中で熊を屠り
共食したのだろう。宮沢賢次の詩はそんな原始の感覚を「と」をずらすことや不思議なオノマトペア
によって密かに見せてくれる。
ショベケーブの洞窟絵画
小林裕児「夢酔」
イエローオーカー(黄土)とプルシアンブルー(藍)
はじめに述べたように絵画の情緒のうちグレーの湿度は僕にとって重要で絵画的情緒
の要諦といってもいい、乾いた世界を描いていてもどこか湿り気を帯びていてほしいのである。
はじめ絵を描き出した頃は市販のキャンバスに有色の下地を施し鉛白で明部の肉付けを
施しそのインパストが乾くのを待って描き進めるといった時間のリスクを抱える方法を取って
いた。そのために自ら望むところに落ち着くまでに膨大な時間がかかった。しかしテンペラに
移行する中で時間の束縛からは逃れることが出来るようになった、水絵に近い脂肪分の少ない
テンペラメディウムはすぐに固化した。
また市販のキャンバスに飽き足らず支持体自体を自製するようになった、いわゆる石膏下地で
炭酸カルシウムと硫酸カルシウムを膠で溶いた下地で大変滑らかで上質の和紙か赤ん坊の肌の
ような質感が得られた。後には陶土のカオリンを用いたりもした、現在はアクリル樹脂と寒水石を
ベースにしたμグラウンドを使用している。いずれもすべらかな画面が得られ、テンペラ独特の晴朗な
色彩と明快なメソッドを可能にした。
タブローを制作するときにはその上に自由なドローイングを試みた後、罫描きの線をニードルで
彫り込みサンドペパーで表面を平滑にする。
その後油彩のイエローオーカー(黄土色)、プルシアンブルー(藍色の代用)の順に地浸透させる、
どちらも古い起源を持つ色であるとともに重ねあわせることによって絶妙なグレーすなわち奥行き感覚の
土台を画面上に形成する。
その上にテンペラと油彩を交互に重ねながら描き進めて行く。
黒鉛=鉛筆 綴じた線
時代を逆走するように自分の絵画世界を広げてきたわけだが、形を綴じる時には市販されているステドラー
の8B鉛筆を使っている。
普通作品を生み出すときには初期衝動がありそれが統語法的な検証を経て制作に至ると考える人が多い
のではないだろうか、そのせいか僕の絵では様々な背景をもつ象徴(私的意味、感情)が画面の中に雑多に
持ち込まれることに疑問を感じしばしば「なにを」を問われることが多い、しかしそれを説明することは出来ない。
例えばガラスのコップを目の前に置いて紙の上にそれを描写するとしよう、スマホやカメラで撮影して平面に
還元されたその画像を移せばそれらしいものが出来るかもしれない、しかしそれは情報の移転であって眼と手を
機械に堕したにすぎないだろう、実物を手に取って見れば見るほどそれは奇怪な表情をもつことに気がつく、
市販のコップであれば両の眼の幅より少し狭く写真よりも奥まで回り込んだところまで見えるだろうし透過、反射、
光の屈折はきらめきをもって見るものに迫ってくる、小さなコップは実はボルヘスの紡ぎだす小説のように今、
ここの包み込む世界の全体を閉じ込めているアナロジーの小宇宙となっていることに気がつき、凝視者は一瞬めまい
を覚えるかもしれない。
我々を取り巻く視覚世界はマッハからギブソンにいたる研究によって解明されてもなお奇怪きわまりなく絵を描く
メソッドの内に更なる問題が次々と投げ出されてくる。
僕の作品は初期衝動を統語する論理はあるものの、描きあげられた作品の意味を問いかけても正確な意図を
くみとることはいく通りもの解釈が可能で意味をなさないと思う、というかアッサンブラージュされたイメージは作者を
超えて別な着地点にたどり着くに違いない。
出来上がった作品は作者よりも鑑賞者のものだと思う。
静物の心は怒り
そのうはべは哀しむ
この器物(うつわ)の白き瞳(め)に移る
窓ぎはのみどりはつめたし
「静物」萩原朔太郎
このようにきわめて視覚的な詩がある、岸田劉生かフランドルの静物画のようではないか、初夏の窓辺に佇む
この詩人の孤独感が「怒り」「哀しむ」「移る」「つめたし」が「静物」「うはべ」「みどり」の語と鮮やかな対照をなし僕らを
詩人の心に連れていってくれる。
絵画であればこのような対照をどのように引き出すだろうか。
岸田劉生「静物」(部分)
僕の絵を一つの宿屋かホテルに例えればそこにはたくさんの常連の客たちがいる、山羊、猫、白鳥、梟、馬、双子、
帽子の男、丸木舟、等これらはすべて過去の私的な記憶の中から登場する、山羊、猫、白鳥(実はアヒル)であれば
飼っていたし梟は小学生の頃目の前にオオコノハズクが現れた驚愕体験がある、僅かながら乗馬の経験もある、
双子は姪、あるいはアフリカのドゴン族の創世神話、帽子の男は晩秋のニューヨークセントラルパークで野鳥に餌を
撒いていた男の記憶がいくつか他の男たち、子供の頃自転車にカラスをいつも乗せてきた鋳掛け屋、宮沢賢治の写真、
「ゴドーを待ちながら」(サミエル・ベケット)に登場する二人の男たち、丸木舟は僕の水や繭型へのあこがれから発し描く
だけでなく平面から抜け出し実際に丸太をくりぬき大小10槽ほど作った。
小林裕児「空舟」
彼らはたいがい僕の劇場の脇役として時には主役として色の場であったり架空の景色だったりのなかに
コラージュされお互いが対照される。彼らを画面の中に居続けさせる為に僕は最も黒いステドラーの
8B鉛筆で画面にとりこみ彼らを画面に縫い付けるようにして描く。
僕は彼らが画面の中に極上の詩の言葉のように絵の言葉となった表現になってゆくことを望んでやまない。
彼らを詩人が操る言葉のように自由にふるまわせるためには僕自身が非日常の絵画空間に常にとなりあわせ
ていることが不可欠だ、その為に口元に笑みを浮かべたシーシュポス(カミユ)の様に日々何枚ものドローイングに励む。
これが僕の創作の作法だが考えてみると絵を描き始めて以来、貧しい経験を補う実に様々な人との出会いや読書体験、
のめり込んだ演劇鑑賞、音楽家やダンサーとのコラボレーションによるライブの活動、古今東西の様々な絵画との出会い
があり、教えられ、考え、様々な実験、失敗を繰り返し逡巡しつつ現在に至っている。感謝。
文献
「萩原朔太郎詩集」 三好達治選 岩浪文庫
「油絵のマチエール」(岡鹿之助著)美術出版
「絵画」(モローボーチェ著、大森啓介訳)
「宮沢賢治 詩画館」天沢退二郎 他監修 くもん出版
「古代芸術と祭式」J・Eハリソン 筑摩学芸文庫、法政大学出版会
「シューシュポスの神話」カミユ 新潮文庫
「言葉と物」ミッシェル・フーコー 新潮社
「ゴドーを待ちながら」(サミエル・ベケット)
「アレフ」「砂の本」ボルヘス
小林裕児「こだま」
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