2020「幻視―合歓の庭」制作過程
2019年に描いた「幻視―庭の情景」幻視―庭の情景 2019 207.7×91 cm パネル/テンペラ、油彩
この作品を出発点として2020制作「幻視―合歓の庭」を制作した。
2019年髙島屋個展図録には以下のエッセイを載せた。
『合歓の木は荒地に最初に根付く先駆種だそうで、引っ越してすぐに家の前の空地に芽を出し、あれよあれよという間に大木になりました。10年もすると空地のもう一方の端に二本目の合歓の木が育ち始め20年を過ぎた今年、庭先から我家を見て私は少々あわてました。我家はすっかり森に呑み込まれているではありませんか。しかし、合歓の葉が初夏の日差しを受けて草地に落とする影は心地よく、わたってくる微風に吹かれながら二本の木の間に飼い猫がうっとりとねそべっているのを見ていると、いつのまにか私もその光と影に溶け込んでしまうのです。』
この絵の世界観をベースに2019秋以来数冊のスケッチブックに様々な方向から気張らないスケッチを重ね大作にふさわしいイメージの深化を目指すことにした。
まず木漏れ日の世界だが印象派、とりわけモネやルノワール、あるいは新印象派の作家たちによって木漏れ日はさまざま試みられ大きな成果を上げているいる、しかしながらそれらはいずれも当時の市民生活の描写を通じ光学的物理的な光と影、色彩効果への関心純化から取り組まれてきた。ここで僕が取り組んだのは印象派のそのような方向ではなく多くの人に愛され、我が家の庭に生えている合歓というモティーフの持つ隙間の多い葉の特性による独特の木漏れ日、ちょうどボビンレースのような隙間を創り出すことにある日、ある時に気が付いたことから始まった。形の重なりが作りだす不思議で思いがけない不定形な光と影の創り出す形は合歓の葉の特性からか絹地に落とした墨の滲みのように輪郭があいまいで味わい深いものだった、これはプルーストのいう無意志的記憶を僕自身に呼び起こすきっかけになった。さらにこの隙間はおそらく面相筆の斜線で絵画を組み立ててゆく時間と過程を隠蔽することなく示し、制作者と鑑賞者の距離を縮める手がかりになるかもしれない。
次に奥行きの問題、数年前に知った日本画家「不染鉄」の作品に俯瞰で富士を描いたものがあった。その絵は驚いたことに駿河湾と日本海が両方描いていあった。経験によって知り得た作者の観念の中での距離感のバランスがこのような恣意的な絵を描かせたのだろうがこれこそが絵画のあるべき姿と共感し、わが意を強くした。
西に向かい開けた埼玉北部の我が家の地勢は、はるか遠く瀬戸内海や天草の内海へとつながっていると思うのだ、それは自身の様々な旅の楽しい記憶をはらみ、その豊穣世界を「不染鉄」のように可視の世界へと引き寄せる。
自身の絵に表れる地上世界と浮遊、大と小の物語世界は記憶の中に幾重にも蓄積され、日々くり返される少しばかりゆるいドローイングの中にいつの間にか現れた者たちだ。
これらの者たちを混沌のカオスの中からある意味“私”を消し掬い取り描き現し、形に色に殉じるように混然一体の物語の出現に身をゆだね描き進めたい。
2019年9日エスキースtake1 紙本/木炭 64.5×80㎝
イメージは固まりつつあるが、全体が混沌としている、スケッチブックによるスタディが必要だ。
2019年12月20日エスキースtake2 紙本/木炭 64.×80㎝
ほぼ構想が固まり制作に入る準備が出来た。
前庭にいつの間にか生えてきた二本の合歓の木、小さな丘の上で様々な森のざわめきが聞こえる。
長い時間の中で積み重ねられ、しまいこまれた意味もあいまいな記憶を一望のもとに現したい。
パネル6枚組273㎝×350㎝ 4mm厚シナべニアパネルにμグラウンドで天竺木綿をマウント、μグラウンド10回塗り。
12月22日木炭であたりを付けだしてみた。
下手に交錯する二人の騎馬、上手に遠ざかる山羊を連れた双子、上昇する人物群。
イギリスの古いコットン紙/鉛筆、白チョーク
中央奥の合歓の形が気になり実物のスケッチをとってみた、ゆるいY字型に分岐する
枝分かれの面白さがポイントになる。手前の合歓は自前で作ることにする。
2019年12月26日木炭によるドローイングを煮詰め「遠ざかる」「近づく」
「樹冠の下での上昇」「交錯する馬上の二人」などのモティーフを通じテーマが仄見えてきた。
此処から制作を開始する。
↓ドローイングのディテール
頭上を通り過ぎる梟、樹幹の下、上昇する者たち。
すれ違う不可解な騎乗の二人、それぞれ頭上に小さな家の「物語」をを載せている
2019年12月31日
リンシードオイルを浸み込ませた後、油彩藍色プルシアンブルー(ウインザー・ニュートン)、黄土色イエロオーカー(ホルベイン)、茶褐色バーントシェナ(ブロックス)による地への染付浸層を行う。
やはり何といっても美しい下地の白いμグラウンドで形成された色は出来れば最後まで残したい。
全体の配置が漸く現れ、絵づらが見えてきた。
2020年2月1日
正月休みとBギャラリーに於けるRita Yanny氏との二人展の制作で暫らく制作を中断していたが1月24日より再開する。
テンペラのテールヴェルト(マツダ)+チタニウムホワイト(ホルベイン)で大まかな明暗のバランスを決定、上手の合歓の葉を根気よく描写、油彩のイエロ-オーカー(ブロックス)+テールベルト(ウインザー・ニュートン)で調子を整える。
2020/2/20
前景および中景の描写に移る下準備として、まずは上手最奥の山や中景の樹木群を描写、中景中央の合歓の枝ぶりと葉をテンペラで丁寧に整える、テールヴェルト(マツダ)+チタニウムホワイト(ホルベイン)、空と重なる部分に弱く油彩黄土を浸層(ブロックス)次に前景から中景に至る草地の木漏れ日をテンペラ(ネープルスイエロー(マイメリ)、テールヴェルト(マツダ)で描写。手前の合歓の樹木にはテンペラ+油彩の捏ね物で厚塗りのインパストを作り存在を強調することにした。
2020/3/1
遅れていた下手の背景を描き、遠くに見えるイノシシ狩りの漁師や森で遊ぶ子供たちを描き込み登場人物や動物たちを描く準備が出来た。
先ずは手前の黒馬を描く準備として思い切って強烈なテンペラ絵具ベネチアンレッド(ターレンス)を塗ってみた。
2020/3/12 「幻視―合歓の庭」エスキースtake NO.2
63×80㎝ 紙本/ミックストメディア
全体の色彩構成を考えるため下図に色彩を与えてみた。
色彩を考えるときにグレー(中間色相)をどのように考えるかが大事だ、下塗に藍(プルシアンブルー)黄土(イエローオーカー)油彩により下地層への浸層、この滲みの様な色をベースに色彩を考えることが基本だ(12月31日画面参照)、わずかにしみ込んだ絵具層は極めて薄く表面に残る絵具の余分なものは取り去る、これが後に置かれた色と共鳴し合い独特の色彩空間を創りだすだろう。
その上に様々な色を置くことになるが使用する絵具は限定されている。
中でも重要なのは緑土=テールヴェルト、バーントシエンナ、辰砂=バーミリオン、ウルトラマリーン=ラピスラズリ、土の土台=塗り重ねられたテールヴェルト、バーントシエンナ、下地色からの離脱(3月21日までの画面)
その上に古来愛されてきた水銀朱と藍青を対比させる(3月13日完成図)。
そして最初からとっておいた下地の輝かしい白色。
2020/3/13
下手の地面が狭く少し窮屈なので思い切って地面を拡げ、疾走する猪を地面に埋め込んでしまった。
また白馬の足を一本追加した。
馬上の人物をテンペラによるバーミリオンペール(マイメリ)ウルトラマリーン(文房堂)油彩のカーマイン(ウインザー・ニュートン)で描き起し画面がいっきに華やかになった。色彩イメージの方向性が決まってきたところで上手の者たちにとりかかることにする。
2020/3/15
山羊を抱く人をバーミリオン+カドミウムオレンジのテンペラ、油彩のコネもので平塗(三浦明範氏のレシピを試みた)梟を抱く双子、その先の山羊と遠ざかる者たちを朱と藍を交錯させながら順次描き進めた。
2020/3/21
天上に向かう上手の者たちを軽みの表現を期待して顔などの細部を後回しにして藍青と朱の組み合わせでテンペラのクロスハッチングを中心に描いてみた。
手前の山羊を抱く女の手直しを試みた。
2020/3/27
馬上の人物の頭上の者たちを除けば完成に近づいてきた。
それ以外の積み残しを整理すると
・上手手前の枇杷の葉が描き込み不足。
・手前の白い梟を抱く少女の額の手直しが必要。
・中央、シルエットの男たちは奥の合歓の葉と絡んだほうが良さそうだ。
・下手、手前の馬の馬具が未解決、また右側の騎乗の男(女)の位置が不安定、ウルトラマリーンだけでは少し単調、暗部をテンペラのカドミウムレッドマルーン(マツダ)で協調してみることにするなどして大幅な手直しが必要。
20203/31
3/27に洗い出した問題を試行錯誤の末すべてクリア、これで一応完成、筆を置くことにした。
完成図 「幻視―合歓の庭」2020 273㎝×350㎝ パネル/テンペラ、油彩
庭に生えてきた二本の合歓の木はいつの間にか大木となり昼ごろを境に地面に不思議な木漏れ日の樹影を映すのだった。
木々のざわめきの中でうごめく影と光のコントラストは実在の物たちの存在を曖昧にしている。その一方で幻影を生み出す場の力は、いつの間にか自身が生きた長い時間の中に埋め込まれた様々な経験や思いが夢想形体として立ち顕れるのだった、それを画面に留めるべく絵を描く時間の速度と共に面相筆の斜線でひたすら掬いとるのだ。
山羊といるほっそりとした母的な女性、ふしぎな面貌だ、菊咲きイチゲ風の髪飾り、肩口には上昇する実体のない羽を持つ男の持つ鳥籠の中を勢いよく下降する鳥たちがいる、籠の中、彼らは飛び去ることができないのだ。
下手下方の者たち、描き進める中で出現した、ごく最近庭先で出逢った鎌を持った罠猟の漁師、獣道を求め鎌で藪こきをするという、寄り添うカップル、森の奥に駆け込む子供たち(ヘンデルとグレーテルあるいは赤ずきんのような民話の世界あるいはセンダックの童話のような)。手前の地面には疾駆する猪が埋め込まれたままになっている。
馬上の二人、不思議な手綱さばきで(パラリンピックの女性騎手?)美しい横顔を見せる女と宝塚の男役のような中性的な人物がすれ違う刹那だ、朱と藍靑、黒馬と白馬、(アナロジーとして最上部の猫たちで繰り返される)頭上に小さな家を抱え髪の毛でつながれほどける刹那、二人は何を想うのか。
双頭の蛇を抱えた白い梟が木立を縫いながら下界の物語など我知らず頭上を越えて行く。
懸命に生を送る鳥たちの短い命のサイクルがそこここに様々な形で提示される。
肩車の上、青い服の男をとらえ、あるいは支え、KOTOBAを発する女性
中景に描いた白い屋根の家と騎乗の二人の頭上の小さな家は対比をなしている、地に水平に張り付いた家と頭上の小さな不安定な家。
仮構の者たちの不明のおこないは意味を逸脱しているのかもしれない、しかし遠く西の海を望む樹下の豊穣世界は無意志的な幻映を生み出しこの者たちを出現させた。
2020年の春陽展は新型コロナウイルスのため試行錯誤のすえ中止と決まった、この作品はこの秋開催のギャラリー椿個展で発表するつもりだ。
この記事へのコメントはありません。