他ジャンルのクリエーターたちに
僕の絵を見て物語を書いたり、曲を創ってもらったりしている。
「浸水の森」を見て、音楽家の齋藤徹さんはアンゲロプロスの映画
の浸水シーンを思い浮かべたと言った。
バルカン半島の背景を持った曲になるかもしれない。
演奏はコントラバスに加えヴァイオリンとアコーディオンが入る。
劇作家の広田淳一さんは、水にまつわる恐さと美しさを抱えた
三つの物語を書いた。
その物語を語る声に呼応して
ダンサーの上村なおかさんが音楽なしで踊る。
絵画「浸水の森」は
他のジャンルの表現者たちにどんなイメージを呼び起こすだろう。
ギャラリー椿の空間でみなさんと一緒にそれを見ることを
ワクワクしながら僕は待っている。
ぜひ多くのかたのご来場をお願いします。
芝居好きの僕は最近「キャラクター」という野田秀樹作の大変面白い劇を観た。
そのパンフレットに建築家の隈研吾氏との対談記事があって、互いに作品が完成する時について語っていた、隈氏いわく「(建物に)人が入って、そこの反応があって初めて出来たという感じですね」それに対して野田氏「やっぱりそうなんだ、演劇もそうだもんね。お客が入るとぜんぜん違うものに見える。」この会話の前に野田氏いわく「絵描きは、署名した時に終わるけど・・・・」。
そうなんだ。
しかし、僕だって絵に現れたイメージが見る人の心に様々な反応を引き起こし、独り歩きを始めて欲しい。あえてその時を待って「完成」と言いたい。誰の目にも触れずアトリエに置かれたままの作品は、いつまでも未完状態を続けているように思える。
ここ2年ほど、赤い色の大作を描いた、すると何故か青い絵を描きたくなる。
基本的に僕は、赤と青そしてたまに黄色の作家のようだ。
赤は火、血、青は水、空、えらく単純だが、僕の身体のバイオリズムにかなっているようだ。
しかも久しく使用しなかった線遠近方で描いている。最近はやっている3D映画の影響か、まさか!
野中の一軒家である我が家に通じる道のかたわらに、一本の白樺が植えられていて、実にたおやかで美しい。ピナヴァウシュの初期の作品「わたしと踊って」を観たら、黒ずくめの若い男たちが白樺の木を持って踊っていた。
そして、森が現れた。
何故「浸水の森」か、と問われても僕には答えが見つからない。
直接のきっかけはいくつかある、しかしいつも自分の身体に充満する記憶と思考の集積が、吸い込んだ海水を海綿が吐き出すようにして画面に現れてくるとしか言いようがない。
僕は海綿か!
そんな状態で言うのは申し訳ないのだが、今年の春陽展の会場で音楽家の齋藤徹さんとダンサーのジャン・サスポータスさんが「浸水の森」の前に長い間たたずむ姿を見て、僕の絵のイメージが他のジャンルの表現者たちに、どんな反応を引き起こすのかを見てみたくなった。
今回は、齋藤徹さん作曲による新曲の演奏、そしてダンサーの上村なおかさんが、劇作家広田淳一さんの物語で踊る。
観客とともにその場に立ち会う時僕の「浸水の森」は「完成」するのかも知れない。