■想像力の檻
小林 角田さんは、これまで新聞の連載や美術館の企画で、絵をもとに文章を書くということを度々されてきました。横浜美術館の4人が創る「私の美術館」展(2008年)では、私の絵を元に「命のリレー」という作品を書いてくださり、とても光栄でしたが、そもそも角田さんにとって絵画とはどんなものなのでしょうか。
角田 絵を観るのは大好きです。ただ、知識がないので抽象画を観て何を思ったらいいのか分かりませんし、変なことを言ってはいけないな、なんて思ったり…(笑)。謙遜でも何でもなく、自分の想像力には限界があると感じていますし、その檻からいかに出て行くか、という課題が自分の中にいつもあるんです。そして、絵という自分にはよく分からないものに一生懸命に対峙していくと、想像力の檻の隙間が少し拡がる。そんな快感を覚えることが私にはあります。結果的に、小説を書いたり、文章を作るときにプラスに働くように思いますね。
小林 想像力の檻という喩えは興味深いですね。僕にとっても、今回絵にさせていただいた『八日目の蝉』は自分の想像をはるかに超える内容の小説でした。最後までドキドキして、読めない日もあって自分はこんなに気が弱い人間だったかと…(笑)。特に、愛人の子どもを誘拐し、3年もの間逃亡し続けていた希和子が捕まってしまう1章の終わり。物語の展開の仕方がとても衝撃的で、何もないところに突然自分が投げ出されたような感覚でしたね。その時に、角田さんって本当にすごい作家だなぁと…。
角田 有難うございます。ところで、この絵はどのようなイメージから構想されたのでしょうか。
小林 この小説が終始僕に伝えてきたのは、実は主人公の希和子が生むことが出来なかった子どもの像なんです。物語には登場しませんし、角田さんが意識されていたのかどうか分からないのですけど、読み進めるうちに、水子の魂が海で浄化されるイメージが僕の中に出来上がっていったんです。深読みしすぎかもしれないですけど…。
角田 書いている間は、胎児のことはあまり意識していませんでした。でも、今日、小林さんの絵を見て、生まれなかった子どもが物語の背景にある、ということに気づかされて、正直ハッとする思いでした。実は、主人公がずっと抱えてきたものだったんですよね…。それに、今あるものであれ、生まれなかったものであれ、命というテーマが小林さんの作品の中には共通してあるということを、以前「命のリレー」を書いた時に見た小林さんの絵と今回の作品を重ねながら、感じることができました。
■いじめられていたのですか……
小林 個人的にはダメ男とダメ女の恋愛話が好きなのですが、角田さんの小説には親子や家族の関係を題材にしたものも多いですね。今回、小説をテーマにした作品を描きながら気づいたのは、たとえば、言葉の行き違いだったり、デリケートな人間関係は絵画には反映しにくいということでした。また、小説でも絵画でも、さまざまな解釈が許される一方で、作者の内的な世界を投影したものと誤解されることも多いですよね。僕の場合、女性を描くと「あれは奥さんですか?」と必ず聞かれるのですが…(笑)。
角田 小説の内容と私生活を混同されることは、やはり多いですね。いじめの話を書いたら、いじめられていたのですか?と必ず聞かれます。でも、それはつまらない見方だと思うんですよね。『八日目の蝉』の場合は、〈女性には必ず母性がある〉という社会の見方に対する疑問から創作が始まりました。そして、実の親からの虐待が話題となったときに、その偏見を前提とした一方的な解釈に対する疑問とか憤りが私の中で育っていったんです。ただ、それらの問題を小説のテーマとして膨らませているのは自分であっても、私の人生とか経験とはかけ離れたことなんですよね。
小林 創造を内なる行為として見たい、という受け取り手の心理はあるでしょうね。でも、表現をする人間にとって大事なのは、逆に登場人物なりモチーフやテーマを自分の内側ではなく外側に置いて、想像力を働かせることだと思いますね。
角田 私自身、こんなにつまらない人間はいない、と思うほど自分に興味がありませんし、魅力的に感じる人というのは、残念ながらダメ男ではなくて、寛容で常識的な人なんです(笑)。でも、そんな人を小説に登場させると話がぶち壊しですよね。何でも許してくれちゃいますから。ダメという意味でも、自分が興味を持てる人間を描きたいですね。
■小説は芸術ではない?
小林 角田さんは初めに、絵はよく分からないとおっしゃっていました。正直なご意見だと思います。私たちは美術とか文学というと〈正しく知っていなければならない〉となぜか思いがちですし、とかく権威とかお墨付きに弱い。紹介される時も直木賞作家だったり、安井賞作家だったりしますね…。それが芸術かどうかはとりあえず脇に置いておいて、どう捉えていいか分からないもの、直接感覚に訴えてくるものに対して、開放されていることが大事だと僕は思うんですね。
角田 芸術というと無条件に良きものであるとか、私たちの生活より一段上にあるものという考え方に対しては、少し反発があります。そもそも私は、美術や音楽は芸術だけど、小説はそうではないと思っているんです。絵や音楽は、国籍も年齢も時代も関係なく、目や耳から瞬時にその感動を受け取ることができますけど、小説や映画は言葉とか向き合う時間を必要としますよね。
小林 タイプも本質も違う?
角田 そうですね。美術や音楽が小説より優れていると言いたいわけでは決してないのですが、私が理解しようとするものとしては違いますね…。
小林 美術には20世紀という時代の括りがあって、その間にさまざまな造形的な実験がなされました。すべてやり尽くされたという見方もありますが、とにかく僕らは21世紀にいて、新しい可能性を模索している。僕は以前から音楽家やダンサー達とコラボすることに興味がありました。今回の企画もそうですが、他のフィールドの人間と一緒に何かを創作することで、それまで気づかなかったことを思いがけず発見することがあるんですね。
角田 ただ単に小説の一場面を切り取って描いてしまうと、説明的でつまらない絵になってしまうのではないか? そんな懸念がありましたが、いざ会場で観てみるとそういったことは全然ありませんでした。むしろ、作者自身が気づかなかったような、テーマとなった小説がはからずも持ってしまった本質を、もしかしたら、それぞれの絵が映し出しているかもしれないと思い、とても興味深く拝見しました。今回の展覧会のような試みはあまりないと思うのですが、絵画と小説の双方が合わさって初めて出来てくる面白さが分かると、より楽しめるかもしれませんね。今日は、有難うございました。(了)
※ 10月24日、日本橋髙島屋6階美術画廊にて収録した内容を抜粋。