暖色を帯びた蠱惑的モノトナスな空気の中、時空を超越した烏賊族と思われる生命体が発光しながら上手から下手へとゆるゆると移動しながら浮遊しているのが見える、ただそれだけの画面である。しかしながら観る者を画面の空気に引き込む魔力は強烈なものがあり、僕だけではなく画面の前で思わず「ゾクッ」とした戦慄を覚えた人は多いはずだ。
この小宮英夫氏の世界は鍛え抜かれたその練達した画力によるところは誰しも認めるところだろう、しかしながら陰影の深い絵肌の背景に見え隠れするのは、独特の皮膚感覚を支える高い文学的な素養と深い思考が生み出す彼独自の造形力なのだ。またそうした沈思黙考気質で硬質な画家としての一面、サービス精神にあふれた明朗快活な社交の人でもあった、思い起こしてみると、かつて春陽展の懇親会後、上野本牧亭二次会の酒席で、出囃子付流麗華麗玄人はだしの落語を披露して皆を驚かせたり、春陽帳の編集に携わり編集後記でその文才の一端を垣間見せたり、春陽会東京研究会での独特の視点と洞察による深く鋭いしかも暖かみのある講評といった具合で、まことに多彩、多芸、多能の人でもあった。
この魅惑的な誰をも引き付けてやまない作家の作り出す作品は哲学的、文学的な思考にも裏付けされた文人気質ともいえるものだろうと思われるのだが、これはまさに創立会員以来、春陽人の「各人主義」DNAを色濃く内在させ、本人もそれを強く意識していたのだろうと思う。
小宮英夫氏のその一種ペダンチックな独特なスノビズムは時に自己言及的な諧謔をあらわにすることもあり、ヒリヒリとした痛みの感覚を机上にのせ絵画という形の造形にして見せる試みまでしてみせた。もっとも本人は「少しやり過ぎた」と含羞を込めて言っていたのだが‥…
残念なことに小宮英夫氏は逝ってしまった、その飴色の幻視世界のイリュージョンはどこに向かおうとしていたのか、本人も慚愧に耐えない思いを残したに違いないが、現在進行形のまま未完で終わってしまった。小宮英夫氏不在の春陽展の穴の大きさをあらためて思うのだ。
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