いつも起きぬけにブラインドを開けるとそいつが居て、何度かは取り除いたのだが、その場所が彼女のベストポジションらしくついには定位置を確保。去年の寒い夏を何とか乗り切り、この冬の始まりに子孫を残し、干からびて蓑で掃きとられるまでそこにいた。それはよく見かける女郎グモ(絡新婦、斑蜘蛛)で、腹の方をこちらに見せ二間ほどある居間の南窓を占領していた。
野中の一軒家にある我が家の南西端に位置するその窓は、春先から晩秋に至るまで日が落ちるとぽつんと光る居間の明かりを目指してありとあらゆる虫たちが押し寄せ彼女の精妙な罠にかかった。
私は制作にあきるとしばしば窓越しに彼女の様子を見に行った。糸壷から糸を引き出し丹念に巣をつくろう様子や、一瞬のうちに獲物をぐるぐる巻きにして紡錘の様にしてしまう離れ業を見物した。女郎グモは、北海道以外の日本と朝鮮、台湾、中国に分布すると言う。何しろ陸地から1000キロも離れた洋上のヴィーグル号で糸に乗ったクモが発見されたりしているくらいだから、彼女も糸に乗ってどこかとんでもない遠くからやって来たかもしれない。
実は、なにグモかは解らないけれど、子グモの旅に何度か遭遇したことがある。直径0.003ミリのしなやかで軽い刃金よりも強いという糸と共に、あるか無きかの超微風に乗って、空を充満する無数の個体が、重力に逆らい、まるで水中を漂うように浮遊していた。その刹那、動いているのはこちらであるかのような錯覚が起きた。この宙吊り的な妙な浮遊感が、私自身のモチーフと重なる。かつて再現的な3次元的な空間を捨てた後、海中をイメージした作品群を経てゲル化した空気中の人物達が、しばしば現れるようになった。これはよくいろいろなメディアで上下を間違われたりもしたが、自身でもよく制作の途中で天地を逆にした作品を描いたり、上下を間違えたりした。我々の体制化した視覚世界の中に安定して住み込めない空を、浮遊するクモにも似たエロスの在り処を暗示しているのだろうか。今のところそれは自分でも不明のままに放置され画面の中を漂っている。
地上の定点に達したクモたちは、空中に罠を仕掛け獲物を平面で受け止め8個の目で超立体視する。ところが動きながら刻々と布置を変える視覚情報の中にいる我々は、映画やTVなどの平面画像に視覚を還元しながら生きているわけではもちろん無く、恐らく視覚を中心としながらも五感全部を動員して流動する視覚世界を形作っているに違いない。この今では測りがたいネイティブな視覚を探る意図をもって、ここ数年うねる表面を持つ立体物に絵を描くことを度々試みている。
この曲面的世界ではクモが獲物の通り道に描く幾何学的な直線の風通しの良い世界は成立しがたく、浮遊するクモの子の、あてども無い旅に似ていて、描いている途中、時に音の焦点や自ら作り出したフォルムに眩惑され描かれた画像と共に画面の中をさまよう。おそらくフランスの洞窟の奥深くで絵を描いた石器時代の画家たちも同じ目まいを感じたに違いない。
2004.1 小林裕児