1948年に東京で生まれ、1974年に東京藝術大学の大学院を修了するという、小林裕児の経歴は、当時の日本の状況から見てもその生活のほとんどが、欧米文化の影響のもとにあったと言える。ゴヤ、ベラスケスの絵画に強く魅かれながら始まった美術学生の生活も、終了間際には、すでに日本の江戸美術へと興味を変えていってはいたが、基本的には、ヨーロッパ美術の技法と造形意識のなかに浸っていた。
1978年、東京の西端に位置する町に移住したことが、小林の作品制作上大きな転換点となった。山と川に囲まれ、自然環境に恵まれた暮らしは、その人間的な感覚を一挙に解放した。森に入り、鳥や動物を観察し、地域の文化について地元の人々から毎日のように教えられた。町は多種多様な樹木に囲まれ多くの鳥や獣が生息していた。自然に関わった人々の暮らしぶり、そこから生まれた民話や伝説、歌や踊り、そして炭や布、紙などの生産物。当時なお人々は川で魚をとり、季節ごとの山の恵みに舌づつみを打ち、祭りに興奮していた。小林のテンペラ技法による作品には、鳥や獣などが擬人化した形で現れ、背景の森や川、山の頂の前で祝祭をくりひろげるようになっていった。
自然と呼応する生活のなかで、小林は人間の表現行為の始まりへの関心を募らせ、アジア、オセアニア、アフリカへと原始的、民族的美術、創世神話や生活などにかかわる書籍を読み漁った。そして自然と共に生き、その関係の中から人間の表現行為が始まったという基本的な視点を持つにいたった。小林のアフリカ美術への関心は、西欧的な造形意識からではなく、17年間にわたるこの町での自然との関わりを通した感覚と思索の行き着く先としてあったといえる。
1988年ごろから小林の絵にはアフリカ的な影響が出てきたが、1989年、それまで写真や美術館で見るだけだったアフリカの仮面を東京かんかんで購入したことは、その年テンペラによる描写的な作画技法を捨て、ドゥローイング的な技法で原初的な生命力に満ちた裸婦を中心とする作品を描くようになった遠因ともいえる。
その後、ドゴン族の部屋の鍵を入手、梯、杖などにも強く魅せられたが、やがてアフリカの布を作品の素材として扱うようになる。アフリカの美術品を鑑賞する立場から、その文化と共演する位置へと自身の立場を大きく変化させた。
1996年、小林は初めてアフリカの絞り染めによる藍布に黒鉛とアクリル絵の具で絵を描いた。湧き上がるイメージを、素早く画面に定着したいという願望から起こった小林の技法の転換にその支持体として布や紙を使用することは最もふさわしいものだった。工業製品としての紙や布でなく、古布や古紙には、作った人のぬくもりと経過した時間が存在し、その上に描く行為はまさしくコラボレーションと呼ぶにふさわしかった。アフリカの布は日本やアジアのそれと違って、小林の感覚に鋭い刺激を与え、自身も予想しない形を画面上に表出するのだった。
2000年、ギャラリー椿での個展で小林はあらたにエンコスティック技法による作品を発表した。熱した蜜蝋に顔料を溶かして描くこの技法は、古くエジプトに起源をもつものだが、力強くシンプルなイメージの表現欲求を受けとめる画面として、クバ族の草ビロードなどアフリカの布は最適であった。布に織りこまれた文様はクバ族の物語や祈りを表し、その上に描く絵は、現代日本にあって最もエネルギッシュな人間の表現現場である演劇やダンスから直接、間接に触発された小林のイメージである。
小林裕児