ちょっとまわりを見渡しただけでも、都会では、刻々と自然が消滅しています。心の疲れを癒してくれるのは自然だけかも、と歳を重ねていくにつれて実感しているので、困ったものだなと感じています。一方、私たちの身体、これこそ自然そのものじゃないか、とふと気づいたことがありました。爪の先から髪の毛1本、何から何まで天然素材。人工のものなんてありゃしない。
私たちの血液は海水と同じ塩分濃度だそうです。海を見るとなぜか寡黙になります。私たちの遠い祖先は、海から上陸したという証拠かもしれません。ひとりひとりの身体の中に、途方もない生物史さえ宿しているわけです。
裕児さんの絵にでてくる動物・植物は、皆、深い叡智を持ち、思慮深く、慈悲深く、哀れなニンゲンを見つめているようです。
生殖期を忘れ、年中さかりがついたままのニンゲンは、化学・核物質で地球・生物を汚し尽くし、資源を掘り尽くし、動物・植物を食い尽くし、果ては遺伝子を操作し、新しい病を発生させている。まわりの自然に対し、取り返しのつかない罪を重ねてきたニンゲンは、順当に輪廻することは許されず、顔が2つあったり、腕から顔が生えてきたり、逆さに吊されてしか生きられません。「身体という自然」から下された罰です。
裕児さんが動物にあうと、何はさておき、ともかく、触り、さすり、撫で、抱きしめます。 動物たちはそれを、気高く許可します。 同じ印を持つ仲間と認識するからです。こうして、自分の中にある自然を呼び覚しているのでしょう。そこには、魚だった頃の自分も、鳥だった頃の自分も、微生物だった頃の自分もいます。手のひら・ほっぺた・胸を通じ、共感の気が交流するのです。これ以上雄大で確実なリアリティはこの世にありますまい。動物たちにしても同じなのでしょう。
掌にその暖かさが残っているうちに、スケッチブックを取り出して、すごい勢いで描き始めます。ミラーニューロンが尋常でなく活性化し、自分と動物の境界線がどんどん消えていきます。裕児さんは、鳴き声でほとんどの鳥の名を言い当てます。膨大な数の植物の名を知っています。ニンゲン界の知識も膨大で、熊楠を、聖書を、ボリス・ヴィアンを、海老蔵を、ギリシャ神話を、ひょっとこ乱舞を、トマス・ピンチョンを同時に語ります。
裕児さんの芸大時代の先生(野口三千三さん)は、「踊りは何かを探す仕草、音楽は何かを呼ぶ行為」と言いました。裕児さんの絵にでてくるニンゲンも異形のままに、時に強く、時にか弱く、何かを探し、何かを呼んでいます。遠い目をして、己の存在を嘆き、私は誰なのか、なぜここにいるのかを詰問しています。裕児さんは時々、アクター、ダンサー、ミュージシャンを絵の磁場に引き寄せ、共振・増幅させます。そして、その場で、ニンゲンの業を「しようのないヤツだな、まったく!」と一気に肯定してくれます。
かく言う私もその懺悔ミュージシャンの1人。この30年間、自分の感覚に従い、楽器調整を替えていきました。とりわけ特徴的なのは弦です。羊のガット弦を特注しています。極太なので、弾きにくい、音は小さい、値段が高い、という三重苦なのですが、雑音・倍音成分をより多く含む音色がどうしても必要なのです。「羊の腸」を「馬の尻尾」に「松のヤニ」をつけて音を出す「民族楽器」としてコントラバスを捉えるに至りました。ソフィスティケーションとは逆方向のようです。
ノイズは、動物とニンゲンとを繋ぐ通行手形になります。かつて、自分はどこから来たのかを知りたくなり、ノイズに導かれて行った先は韓国やマレーのシャーマン達でした。音楽は自己表現の道具ではない、音楽は「素材」の集合体でなく、すべてに意味があるということを教わりました。そしてなにより彼らは皆「健康」でした。自然が支えてくれているのだから、身を削って「作品」をでっち上げ、自分の名札をつける必要はない。彼らは、儀式で、虎や猿になって踊り叫びます。捧げ物は野菜や動物なのですが、野菜や動物が自ら「捧げ物にしてくれろ」と身を投げ出しているようでした。
そういう経験は、裕児さんとの会話、セッションと通じ合うものです。裕児さんは「自己表現」の罠にはまらずに健康に創作を続けています。とりわけ最近の勢いはちょっとすごいものがあります。この世での自分の命が終わったときには、捧げ物となってみんなに食われることを約束しているのでしょうか。朝目覚め、好きな絵を描き、疲れると自然に抱かれて眠る。エネルギーを補填して、また朝起き、絵を描いて、疲れて眠る。自然に暖かく全存在が保護されている。
裕児さんは、動物・植物からのメッセージを届ける使者であると共に、ニンゲンの理不尽な願いを翻訳してくれる仲介者でもあるのです。
さあ、全身を耳にして、裕児さんの絵を聴きましょう。